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中村とうよう御大への惜別の辞

7月21日、パソコンでニュースを検索しているうちに衝撃的な文字が目に飛び込んだ。「音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か」、慌ててクリックして全文を読んだのは言うまでもない。

21日午前10時15分ごろ、東京都立川市柴崎町のマンション敷地内で、マンション8階に住む音楽評論家の中村とうよう(本名・中村東洋)さん(79)が頭から血を流して倒れているのを通行人の女性が見つけ、119番通報した。中村さんは頭を強く打っており、搬送先の病院で死亡が確認された。警視庁立川署は、中村さんが8階の自室から飛び降り自殺を図ったとみて調べている。(『MSN産経ニュース』7月21日18時1分配信)

中村とうよう御大は1932年7月17日、京都府峰山町(現・京丹後市)に生まれた。京都大学経済学部を卒業後、日本信託銀行員を経て音楽評論家として活動を始め、1969年に音楽雑誌『ニューミュージック・マガジン』(現・ミュージック・マガジン)、1982年には『レコード・コレクターズ』を創刊。『マガジン』は1989年まで、『コレクターズ』は1992年頃まで編集長を歴任した。また、NHK、TBS、ニッポン放送などでディスク・ジョッキーを担当し、一時期「レコード大賞」の審査員も務める。その他、自身のレーベル「オーディ・ブック」を主宰してCDブックの形態でワールド・ミュージックを紹介。松岡直也、芸能山城組などのレコード・CD等のプロデューサーとしても才覚を振るった。『大衆音楽の真実』、『地球が回る音』、『雑音だらけのラヴソング』、『ポピュラー音楽の世紀』など著書多数。
2008年10月より武蔵野美術大学客員研究員に就任。2010年12月にて株式会社ミュージック・マガジンの会長職を辞した。
なお、『ニューミュージック・マガジン』の編集に携わったスタッフの中から音楽評論家の小倉エージ氏、北中正和氏、作家・評論家の西村幸祐氏、フリーランスライター/エディターの柾木高司氏、太田克彦氏らを排出している。

私が、『ニューミュージック・マガジン』を初めて手にしたのは小学生の頃だと思う。当時、兄の部屋に無造作に置かれた音楽雑誌をビートルズや映画の記事が楽しみで読みふけることがあり、その中の一冊が『ニューミュージック・マガジン』だったのだ。兄の部屋から流れて来る洋楽に親しみを覚えていたとはいえ、最初の頃は未知の領域に関心を示すことなどない。しかし、どうしたものか好奇心から想像力をも駆使し、あれこれ読み進めて行くうちに自然と対象外だった事柄にも興味を抱いてしまうものである。おかげで実際は音楽を聴いたことがないミュージシャンであっても、おぼろげながら輪郭のようなものを頭の中で勝手に描き想いを巡らせたものだった。
中村とうようという名を意識し始めたのはもう少し後のこと。自分でもレコードを購入するようになった頃だろう。ミュージシャンの派手な写真が掲載された音楽雑誌よりも社会の動きや時事問題と音楽を絡めた「ニューミュージック・マガジン」の編集方針に心を惹かれた。音楽は社会を映す鏡とはよくいったものである。

このように熱心に『ミュージック・マガジン』を読んでいたにもかかわらず、自分が所有しているレコードやCDのライナーに中村とうようの名前は殆ど目にすることがない。中村御大が、アメリカのロックやウエスト・コースト・サウンドには厳しい立場を取っていたからだろう。『ニューミュージック・マガジン』1979年11月号の「ロック革命の中のヨーロッパの影」と題する記事の中にこういう記述がある。「それにしてもディランの『鈍行列車がやって来た』に見るように、ダイア・ストレイツのレイドバックしたスロウ・ディスコ・ビートとキリストへの逃避がエセ・ヒューマニズムの行き着いた先だというのは、あまりに情けない。このディランやイーグルスの新作のただよわすどうしようもない暗さは、泥沼の中へ足を引っぱり込まれている暗さのようにぼくには感じられ、それと対照してパンク以後のロックの持っている暗さは、ヨーロッパにもはや闇しか残されていないことを見据えてその暗さを自ら逆手に取って力としているというふうに見える。だから暗くはあっても『黄昏の光』なのである」と述べていた。なお、『鈍行列車がやって来る』は『Slow Train Coming』、イーグルスの新作とは『The Long Run』のことである。

1960年代のボブ・ディランのアルバムを担当していたのは中村御大その人なのだが、66年の『Blond On Blonde』を最後にピンとこなくなり、67年の『John Wesley Harding』や 69年の『Nashville Skyline』のサウンドがカントリー風になったことに抵抗感を抱いた旨を『Bob Dylan Disc Guide』の記事の中で吐露していた。90年代以降、中村御大は『ディランはもうソング・ライターとしては興味ないけども、パフォーマーとしてはすごく興味がある」といった発言を繰り返し、「もし自分にプロデュースを任せてもらえるならアフリカ音楽をバックに取り入れる」との趣旨を述べておられたことがある。関心がないとは言えど、中村御大にとって気になるアーティストに変わりがないようだ。
また、ディランに関しては著書『ポピュラー音楽の世紀』にて、「フォーク・ソングが掲げる理念をただのタテマエに終わらせないためにはそこにロックという爆弾を仕込む必要があると考えたディラン。ロックのエネルギーを商業主義に盗み取られないために歌詞に社会の真実を盛り込もうと模索するレノン。この二人の方向性がひとつにまとまろうとしていた。このときロックは本当の姿を取り戻しかけた。しかし、それ以降もロックを抱き込もうとする商業主義の強い働きかけは止まなかった」と記述している。

中村御大はもともとラテン音楽、ジャズ、R&B、ブルース、民族音楽に精通していた人。言葉は悪いがロックは片手間で評論していた嫌いが見受けられることもある。その御大も『ニューミュージック・マガジン』を創刊するにあたり、「かつてはぼくもロックなんて低級な音楽だと思っていた。そうじゃないと考えるようになると、こんどは世間一般のロックに対する偏見・蔑視が気になってくる。(中略)いまやロックは新しい若者の大衆文化として、重要な役割をになうようになっているのだから、文化論的な立場からロックを正当に把握するための活字メディアが必要だ・・・・・・というのがこの雑誌の発刊の趣旨なのだが、正直いって、自分でもよくわからないところもある」(1969年4月創刊号の後記より)と述べていた。また、さらに誌名を『ミュージック・マガジン』に変更した1980年1月号の後記にも「60年代の後半に大きく盛り上がった新しい若者の音楽を表すのに最適の用語として”ニュー・ミュージック"という言葉を使った。アメリカの『シング・アウト』誌でフィル・オクスが、ビートルズとディランを起点とする大きな動きを"ニュー・ミュージック"と読んでいたのがヒントになった」との趣旨を語っている。

『ミュージック・マガジン』にはとうようズトークという連載がある。中村御大が音楽の紹介のみならず、政治、経済、風俗などといった時事問題や社会問題をも歯に衣着せぬ辛口の視点で一刀両断にする名物コーナーだ。しかし、的を射た発言が多々あるものの独善的で到底受け入れ難い発想も提起され、ことに近年ではテレビや新聞の報道を鵜呑みにして短絡的に文章を書く傾向が否めないと感じられた。ボブ・ディランについても何度か扱われ、批判的な論調が多かったのだが、ここでも常に気にかけていた様子が窺える。まったく嫌いな人間なら無視をすればすむこと。とやかく口出しするだけ愛情が残っていたことのあらわれなのかもしれない。

『ニューミュージック・マガジン』創刊時のいきさつを語る中村とうよう御大。


アルバム『Nashville Skyline』のオープニングを飾る「Girl From North Country」。ボブ・ディランとジョニー・キャッシュが共演するヴァージョンだ。御大はCDのライナー(LP発表時に掲載されたものの転載)で「俗気を去った坊主の禅問答のような境地・・・というと少々オーバーかもしれぬが、とにかく小手先にこだわらぬご両所のおおらかなデュエットぶりは爽快である。最後に『トゥルー・ラヴ・オブ・マイン』と掛け合いになるところなど、実に人間味にあふれている」と評していた。



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現在も中村御大の解説が使われているかは不明。

仏教では釈迦を始め悟りを開いた聖者であれば、自殺をしても良いという考え方がある。人間が生きていくには動物や植物の命を奪わねばならない。人間自体が業(行為)を作っていると言えるだろう。そこで、悟りを開いた聖者であれば、余計な業を作らないために自殺したほうが良いというのだ。もっともこれは聖者にのみ許されることであり、一般人はいくら苦しくてもこの世で修行を積まなければならない。悟りを開いていない者は輪廻し、来生に生まれ変わって修行を続けるが、自殺をすることで積んだ修行は帳消しとなってしまう。聖者は輪廻から解脱しているので、自ら命を絶っても問題がない。
宗教嫌いでも有名だった中村御大であるが、仏教には造詣が深かった。まさかこうした仏教の教えを知らないはずがないし、自分が聖者であると思い上がってもいなかったであろう。それだけに自死という結末は不可解でならない。

KARAが表紙を飾り、K-POPの特集が組まれた『ミュージック・マガジン』8月号。時代の変化とはいえ、何か釈然としないものを感じる。もちろん最後となるであろうとうようズトークも掲載されている。
ワールド・ミュージックに精通していた中村御大の心にはK-POPという音楽が、どのように映っていたのだろう。月並みな言葉だが何かひとつの時代の終わりを象徴するように思えた。

もう中村とうよう御大はいない。謹んで冥福を祈ろう。そして、「ありがとうございました」と感謝の言葉を送りたい。

参考文献
『ニューミュージック・マガジン』(1974年4月号ー1969年4月創刊号を再収録)
『ニューミュージック・マガジン』(1979年11月号)
『ミュージック・マガジン』(1980年1月号)
『大衆音楽の真実』(株式会社ミュージック・マガジン 1986年)
『ポピュラー音楽の世紀』(岩波新書 1999年)
レコード・コレクターズ増刊『ボブ・ディラン・ディスク・ガイド』(株式会社ミュージック・マガジン 2010年)

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コメント

私たちの青春期に多くの音楽情報提供してもらっていた。

とても残念な事です。
タウン・ワンダー様、訪問いただきありがとうございます。
自ら命を絶つ場合、当事者にしかその理由は分からないものでしょう。しかし、中村とうよう御大が、どうしてあのようなかたちの結末を選ばれたのか理解出来ません。
音楽界において果たす役割はまだまだ多くあっただろうに。本当に残念に思います。
ニューミュージックマガジンには、高校時代に大変刺激を受けました。ウエスト・コースト全盛時代に鯨を救おうへの冷静な対応等、考えさせられたものです。とうよう氏の自殺?と昨年の加藤和彦氏の訃報と同じ理由のような気がします。

あまり、話題にならないのが氏の功績を考えると残念でなりません。
kuwa様、訪問いただきありがとうございます。
中村とうよう御大は、「1960年代のカウンター・カルチャーを全面的に支持しないが、当時の若者たちの考え方に世の中を少しでも良い方向に持って行きたいとの誠実な願いが込められていた」との趣旨を述べられていたことがあります。と同時に、「ローリング・ココナッツ・レビューには何とも言えぬ奇妙なイヤらしさを覚えた」と吐露されていました。
かつて、「俺と今野雄二以外にはろくな音楽評論家はいない」とまで豪語したことのある中村御大。小倉エージ氏ら若手を発奮させるために言葉のあやとして言われたことなのでしょう。
この二人が人生の結末として同じ道を選択されたことは残念でなりません。
いつもお世話になっております。

こちらでこの訃報を知りました。非常に残念です。私も学生時代、「ニュー・ミュージック・マガジン」の愛読者でした。ディラン、ザ・バンド、カントリー・ロック、S&Wなどの記事は興味深く読ませていただきました。
音楽は、「好きなものを楽しむ」というスタンスでしたので、とうようさんのアクの強い主張や音楽ジャンルの違いから、あまり影響は受けませんでしたが、あの雑誌にはお世話になりました。

今は、謹んでご冥福をお祈りいたします。



takaboh様、訪問いただきありがとうございます。
本文中にも書いておりますが、中村とうよう御大はアメリカン・ロックやシンガー・ソング・ライターの動きには冷静なスタンスで接しておられました。カントリー・ミュージックがアメリカ人の保守性を想起させるという理由で敬遠されていたことも一因でしょう。
中村御大は市民運動家の側面も持っておられ、かなりリベラルな人でした。私とは相容れないものが多々ありましたが、それでもとうようズトークが一番の楽しみでした。もうあの歯に衣着せぬ文章を読めないと思うと残念でなりません。

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