好きな音楽のことについて語りたいと思います。

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Fred Neil - BLEECKER & MACDOUGAL

前回で扱ったラヴィン・スプーンフルの『DO YOU BELIEVE IN MAGIC』の中で、彼らがフレッド・ニールの「Other Side To This Life」をカヴァーしていました。そこで、今回は安易ながらもこの曲が収録されたフレッド・ニールのアルバム『BLEECKER & MACDOUGAL』を取り上げることにします。

ブリーカー&マクドゥガルブリーカー&マクドゥガル
(2006/10/25)
フレッド・ニール

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1. Bleecker & MacDougal
2. Blues on the Ceiling
3. Sweet Mama
4. Little Bit of Rain
5. Country Boy
6. Other Side of This Life
7. Mississippi Train
8. Travelin' Shoes
9. Water Is Wide
10. Yonder Comes the Blues
11. Candy Man
12. Handful of Gimme
13. Gone Again

フレッド・ニールは1936年3月16日にフロリダ州に生まれました。彼がプロのフォーク・シンガーを目指してニューヨークに辿り着いたのは1950年代の終わりから60年代の始めにかけてのこと。若い頃から放浪の旅に出ていたのでしょう。12弦ギターを弾きながらバリトン・ヴォイスで甘く語りかけるように歌うといった彼独特の怪しげなブルース・フィーリングは、そんな放浪体験から自ずと身に付けたものと思われます。

ニューヨークにやって来たフレッド・ニールが知り合ったのは1938年生まれのヴィンス・マーティン。1956年に「Cindy, Oh, Cindy」のヒットを放ち、一躍ニューヨークのフォーク・シーンの重鎮となったシンガーです。しかし、その後は鳴かず飛ばずで、知る人ぞ知るという存在になりかけていました。
ちょうどヴィンス・マーティンが起死回生を試みていた時にフレッド・ニールと出会い、年齢が近い二人は意気投合。デュオを組んで活動を始めます。ヴィンス・マーティンが一度でもヒットを出したという功績が大きかったのか、彼らは運良くエレクトラから1964年に『Tear Down The Walls』というアルバムをリリースしました。そのパフォーマンスが功を奏し、翌65年にはフレッド・ニールは同社からソロ・アルバムを発表する機会に恵まれます。
レコーディングに参加したミュージシャンはジョン・セバスチャン(ハーモニカ)、ピーター・チャイルズ(ドブロ・ギター)、後にマウンテンを結成するフェリックス・パパラルディ(ベース)、後にチップ・ダグラスとしてMFQやタートルズで活躍するDouglas Hatfield (ベース)などの錚々たる顔ぶれ。ドラムレスのサウンドがブルージーな雰囲気を醸し出していました。

それではアルバムの中から何曲か紹介しましょう。オープニング・ナンバーは表題曲「Bleecker & MacDougal」。


ラヴィン・スプーンフルの記事で紹介した「Other Side of This Life」。


OTHER SIDE OF THIS LIFE
秘密を知りたくないか
おまえと俺の二人だけの秘密だぜ
俺はこれからどこに行くか分かっちゃいないのさ
自分が何になりたいのかも分かっちゃいないんだよ

でも それも俺が生きて来た
人生の違った側面
人生の違った側面なのさ

俺の世界は丸ごと大騒ぎ
俺の世界はひっくり返っちまった
これからどこへ行くのか分からない
でも俺はいつもあちこち放浪しているだけさ

そして それも俺が生きて来た
人生の違った側面
人生の違った側面なのさ

自分が何をしているか分からない
半分ぐらいはな
これからどこに行くのか分からない
ヨットでも手に入れて
メキシコ湾でも渡ってみるとするか

でも それはまた違った側面
俺が生きて来た
人生の違った側面なのさ

ナッシュヴィルにでも行ってみようか
テネシー州のな
都会で俺が続けてきた粗末な暮らしは
俺をへとへとに参らせちまうだろうな

でも それも俺が選ばなかった
人生の違った側面
違った人生の側面なのさ

秘密を知りたくないか
おまえと俺の二人だけの秘密だぜ
俺はこれからどこに行くか分かっちゃいないのさ
自分が何になりたいのかも分かっちゃいないんだよ

でも それも俺が生きて来た
人生の違った側面
人生の違った側面なのさ

ライブ・ヴァージョンです。


ジェファーソン・エアプレインのヴァージョンは1969年にリリースした『BLESS ITS POINTED LITTLE HEAD』に収録。今回は1969年に開催された「The Altamont Speedway Free Festival」でのライヴ映像をご覧ください。


トラディショナル曲の「Water Is Wide」。


もともとスコットランド民謡だったこの曲は、数えきれないほどのアーティストが取り上げています。カーラ・ボノフのヴァージョンは1979年発表の『Restless Nights』に収録されていました。


ジェイムズ・テイラー氏にも登場してもらうことにしました。彼のスタジオ録音は1991年リリースの『New Moon Shine』に収録されています。


1966年にフレッド・ニールはキャピタル・レコードに移籍。同社では『Fred Neil』(1966)、『Sessions』(1967)、『Other Side Of This Life』(1971)と3作のアルバムを残しています。キャピタル時代はエレクトラの作品と少々趣を異にし、全体的にポップな仕上がりがなされていました。
フレッド・ニールのアルバムは商業的に大きな成功を収めたとは言えないのかもしれませんが、「Everybody's Talkin'」を始めとして彼が書いた数々の曲が多くのアーティストにカヴァーされています。また、カリズマ的な魅力を発散させ、ボブ・ディラン、カレン・ダルトン、ジョン・セバスチャンなど当時グリニッジヴィレッジ周辺で活動していたアーティストのみならず、ジョニ・ミッチェル、ティム・ハーディン、スティーヴン・スティルスら同時代に活躍した人々に与えた影響は計り知れないものがあるでしょう。
個性豊かな12弦ギターと低音の魅力で1960年代のニューヨークのフォーク・シーンを静かながらも席巻したフレッド・ニール。リンダ・ロンシュタットやティム・バックリィーがカヴァーしたことでも知られる「The Dolphins」(1966年発表の『Fred Neil』に収録)という自然への愛情を描いた作品を書いているように、早くから環境保護へ関心を寄せていたといいます。1977年4月にジョン・セバスチャンやピーター・チャイルズらを従えて来日し、東京の晴海で開催された「ローリング・ココナッツ・レビュー(捕鯨に対する抗議が趣旨)」で演奏したことも、そうした彼の信念によるところが大きいのかもしれません。1970年代半ばにフロリダへ転居し、イルカを保護するプロジェクトと関わりながら隠遁生活を送っていたようですが、残念ながら2001年7月7日に癌により他界しています。

今回のお別れは「Everybody's Talkin'」。以前にハリー・ニルソンのヴァージョンを記事にしたことがありましたが、作者本人のものを聴いていただけたら幸いです。この曲も枚挙に暇がないほどのアーティストに取り上げられており、フレッド・ニールに影響を受けたといわれるスティーヴン・スティルスも1975年発表のライヴ・アルバムでカヴァーしていました。


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The Lovin' Spoonful - DO YOU BELIEVE IN MAGIC

前回扱ったニッティ・グリッティ・ダート・バンドの記事の中で、彼らがジョン・セバスチャンもしくはラヴィン・スプーンフルに影響を受けていることに言及しました。そこで今回はラヴィン・スプーンフルの作品を取り上げてみたいと思います。
いつまでこのブログを続けられるか分かりませんが、この人たちには今後も頻繁に登場を願うことになると思われ、ここはやはりファースト・アルバムから紹介するのが筋でしょう。ということで、今回のお題はラヴィン・スプーンフルの皆さんが1965年に発表した『DO YOU BELIEVE IN MAGIC』です。なお、この一風変わったバンド名はミシシッピ・ジョンハート(1920年代に活躍したブルース・ギタリスト兼シンガー。60年代にカム・バックし、短期間ながら精力的に活動した)が書いた「Coffee Blues」の一節、”I wanna see my baby 'bout a lovin' spoonful, my lovin' spoonful" から取られました。

Do You Believe in MagicDo You Believe in Magic
(2002/07/09)
The Lovin' Spoonful

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1. Do You Believe In Magic
2. Blues In The Bottle
3. Sportin' Life
4. My Gal
5. You Baby
6. Fishin' Blues
7. Did You Ever Have To Make Up Your Mind?
8. Wild About My Lovin'
9. Other Side Of This Life
10. Younger Girl
11. On The Road Again
12. Night Owl Blues
13. Allep Oop (bonus track)
14. Younger Girl (demo)
15. Blues In The Bottle (alternate vocal version)
16. Wild About My Lovin' (alternate vocal version)
17. Other Side Of This Life (instrumental)

1964年にデビューしたマグワンプスはフォーク・ロックを先取りしたような音楽性を持っていました。メンバーはザル・ヤノフスキー(1944年12月19日、カナダのトロント生まれ)、キャス・エリオット、デニー・ドハーティー、ジェイムズ・ヘンドリックスの4人。ニューヨークを中心に活動していましたが、商業的な成功を得られぬまま解散。キャス・エリオットとデニー・ドハーティーはジョン・フィリップスらとママス&パパスを結成してロサンゼルスに拠点を移します。残されたザル・ヤノフスキーはマグワンプスにゲスト参加したことのあるイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドのジョン・セバスチャン(1944年3月17日、ニューヨークのグリニッチヴィレッジ生まれ)と意気投合し、新たにバンドの結成を決意。ベースのスティーヴ・ブーン(1943年9月23日、ノース・キャロライナ州生まれ)とドラムスのジョー・バトラー(1941年9月16日、ニューヨーク州ロング・アイランド生まれ)を加え、こうしてラヴィン・スプーンフルがスタートしました。
ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion イギリスの侵略)といわれる旋風が巻き起こっていた1960年代中頃のアメリカ。ビートルズやローリング・ストーンズを始めとするイギリスのロック・バンドが爆発的な人気を得て次々とアメリカのヒット・チャートを賑わしていました。ジョン・セバスチャンとザル・ヤノフスキーはこうした動きに影響されて迎合するのではなく、アメリカ的な音を醸し出すバンドを目指します。
エルモア・ジェイムズのようなブルースもチャック・ベリーみたいなロックン・ロールを弾くことが出来るザル・ヤノフスキーのギター・テクニック。経験豊かなスティーヴ・ブーンとジョー・バトラーの安定したリズム・セクション。ジョン・セバスティアンは彼らの個性を生かすことで何か新しいタイプの音を紡ぎ出せるのではないかと考えたのです。

ラヴィン・スプーンフルはニューヨークのクラブ「Night Owl(ナイト・アウル)」を中心に活動を始め、次第に業界の関心を集めていきました。ある時、ザ・ロネッツのプロデューサーとして有名なフィル・スペクターが彼らの演奏を観ていたく気に入り、自らプロデュースを買って出ます。しかし、ラヴィン・スプーンフルはスペクターの「ウォール・サウンド」の下では自分たちの個性が発揮されない状況になることを懸念してこの申し出を断りました。
そんないきさつがあった中、ジョン・セバスチャンとスティーヴ・ブーンはボブ・ディランのアルバム『Bringing It All Back home』(1965)のレコーディン・セッションに参加。積極的に関係各所へ自分たちをアピールしていたのです。
間もなく、ラヴィン・スプーンフルは新進プロデューサーのエリック・ジェイコブセンの助力で数曲をレコーディング。彼らはジェイコブセンとともに大手レコード会社へ売り込みをかけ始めます。運良くエレクトラで4曲を録音する機会を得るものの発売に至らず、他のメジャー・レーベルから相手にされない状況が続く中、ようやく新興のカマ・ストラとの契約に漕ぎ着けました。
なお、エレクトラでの録音は1966年にエリック・クラプトン、アル・クーパー、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドの楽曲とともに『What's Shakin'』というオムニバス盤に収録されて陽の目を見ます。

それではアルバムの中から何曲か紹介して行きます。オープニング・ナンバーの「Do You Believe In Magic」は彼らのコンセプトのような曲。一度耳にすると魔法のような音楽に取り憑かれてしまいそう。


DO YOU BELIEVE IN MAGIC
若い女の子のハートにかかった
魔法を信じるかい
音楽が始まるときはいつも
どうして彼女たちの心を解き放てるのか
音楽がイカしていれば魔法となるのさ
古い映画のように君をハッピーにさせる
魔法について教えてあげよう
君の心を解き放ってあげよう
でもそれは見知らぬ人に
ロックン・ロールを語るようなもの

魔法を信じるのなら
あれこれ悩まないで
ジャグ・バンドの音楽であれ
リズム&ブルースであれ
ただ聴いてみればいい
そうすれば笑顔になれるさ
どんなに激しく
君の顔から喜びがさめることはない
足がタップを始めても
どうしてそうなったのか分からない
だからすべてを忘れて楽しもう

魔法を信じるのなら
俺についておいでよ
朝まで踊ろう
二人きりになるまで踊ろうぜ
そして もしかして
音楽がぴったりだったら
明日も会おうよ
夜遅くにでも
そして踊りに行こうぜ ベイビー
そうすれば分かるはず
音楽には魔法があり
俺の中には音楽あることを

Yeah
魔法を信じるかい
若い女の子の心の中にある魔法を
ロックン・ロールの魔法を信じるかい
君を解き放つ魔法を信じるかい
さあ 音楽について語ろうぜ
魔法を信じるかい

1963年に発表されたジム・クウェスキン&ザ・ジャグ・バンドのファースト・アルバムにも収録されていたトラッド・ナンバー「My Gal」です。ジャグ・バンドのスタイルで演奏されたジム・クウェスキンのヴァージョンと異なり、ロックン・ロール風の仕上がり。ジョン・セバスチャンはソロ転向後のライヴ・アルバム『Real Live』(1971年)でもこの曲を取り上げていました。


バリー・マン、シンシア・ウェイル、フィル・スペクター共作の「You Baby」。フィル・スペクターに敬意を表するかのように、彼が観に来た時はいつも演奏されていたといいます。


シングル・カットされて全米チャート2位まで上がった「Did You Ever Have To Make Up Your Mind ?」。一人の女性を愛しながらも別の女性にも惹かれる浮気心をユーモラスに歌い上げています。


フォーク・ロックの名曲とされるフレッド・ニール作の「Other Side Of This Life」。将来への希望と不安が入り交じったような心情が描かれていますが、最後に「俺の人生にはもうひとつの生き方がある」と締めくくられ、冷静で力強い決断が窺えました。なお、フレッド・ニールのヴァージョンは1965年発表の『Bleecker & MacDougal』に収録されていました。


オリジナル盤では最後の曲だった「Night Owl Blues」。ジョン・セバスチャンのブルース・ハープ(ハーモニカ)をフィーチャーしたインストゥルメンタルです。自分たちの原点であるクラブへのオマージュの意味が込められているのでしょう。


1966年にシングル「Daydream」が全米2位を記録し、「Summer In The City」ではついにトップを獲得したラヴィン・スプーンフル。ユーモアとウィットに富んだ歌詞と陽気なサウンドで古き良きアメリカを表現し、快進撃が続くように思われました。しかし、ザル・ヤノフスキーがマリファナ所持で逮捕されて1967年6月に脱退。替わって元モダン・フォーク・カルテットのジェリー・イエスターが加入しますが、健全なイメージは回復されず人気に翳りが見え始めます。
ロック・ミュージックの主流がサイケデリックやプログレッシヴなサウンドへと向かい始めた1967年。ラヴィン・スプーンフルもこの潮流の中に飲み込まれて行きます。4枚目のアルバム『EVERYTHING PLAYING』ではオーケストラを導入して時代に呼応するような試みもなされたものの全米116位に終わり、かつての勢いを取り戻せませんでした。翌68年にはジョン・セバスチャンが脱退。グループはまもなく解散へと追い込まれてしまいます。
その後、1991年になってジョー・バトラー、スティーヴ・ブーン、ジェリー・イエスターの三人が中心となってラヴィン・スプーンフルは突然再結成。2000年にはロックの殿堂入りを果たしました。新生ラヴィン・スプーンフルは現在も各地でコンサート活動を行っているようですが、我が道を行くジョン・セバスチャンの姿はそこにはありません。

今回はラヴィン・スプーンフルがエド・サリヴァン・ショーに出演した際の映像でお開きにします。ブログへの貼付けが出来ないので、宜しければ下記のURLをクリックしてご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=m4zoIxW--Y0

The Nitty Gritty Dirt Band - Ricochet

今回はマーヤさんのブログ「始まりはいつもジョン・デンバー」」で、ジョン・デンバーとニッティ・グリッティ・ダート・バンドが共演した”And So It Goes”が扱われていたのに触発されて、NGDBを取り上げることにしました。お題は彼らが1967年に発表したセカンド・アルバム『Ricochet』です。

RicochetRicochet
(1996/02/07)
Nitty Gritty Dirt Band

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1. Shadow Dream Song
2. Ooh Po Pe Do Girl
3. Coney Island Washboard
4. Put a Bar in My Car
5. It's Raining Here in Long Beach
6. I'll Search the Sky
7. Truly Right
8. Tide of Love
9. Happy Fat Annie
10. I'll Never Forget What's Her Name
11. Call Again
12. Teddy Bear's Picnic

1970年代にカントリー・ロックを代表する地位を確立したNGDBですが、1960年代の中頃にバンドが結成された時期はジャグ・バンドの特徴を色濃く持っていました。ジャグ・バンド(Jug Band)とは20世紀初頭のアメリカ南部で興った音楽の形式で、ヴォードヴィルやブルースに影響を受けた大衆音楽です。もともとはジャグと総称されることになる身の回りにある瓶(Jug)、洗濯板(ウォシュ・ボード)、洗濯桶(ウォッシュ・タブ)、ノコギリ、スプーンなどの生活用品を楽器の代わりとして演奏されていました。こうした工夫は貧困のために楽器を手に入れることが困難だった黒人たちが編み出した知恵の賜物と言えるでしょう。
こうした代用品に、正式な楽器であるハーモニカ、カズー、ギター、バンジョー、マンドリン、アコーディオンなども加わって発展し、音楽ジャンルとしての名称もスキッフルと呼ばれ始めます。また、白人の間にも広まって行ったこともあってカントリーの要素も窺えるようになりました。
ジャグ・バンド(スキッフル)はケンタッキー州ルイビルが発祥の地とされていますが、やがてメンフィスでも盛んになり、この二つの都市を中心に1920年代から30年代にかけて最盛期を迎えました。しかし、音楽の流行は移ろいやすく、1930年代後半には衰退してしまったのです。
忘れ去られた音楽となりかけていたスキッフルですが、1950年代のイギリスでブームが起こりました。ジャグをあまり用いず、ギターを中心としたアンサンブルでスキッフルに興じる十代の若者たち。その中にはビートルズの前身であるクォーリーメンの姿もありました。
そうしたイギリスでのブームに呼応するように、アメリカでも1950年代後半から60年代にかけて、フォーク・リヴァイヴァルの動きとともにジャグ・バンド(スキッフル)が浸透し始めます。ボストンを拠点としたジム・クェスキン・ジャグ・バンド、後にラヴィン・スプーンフルを結成するジョン・セバスティアンが参加していたニューヨークのイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドなどが脚光を浴びました。なお、この二つのバンドにはマリア・マルダーが在籍しています。

時を同じくして、土曜の午後になるとカリフォルニア州ロング・ビーチの喫茶店に集まり、ステージに上がっては手当り次第に側にあるものを楽器に見立てて鳴らしまくっていた数人の少年たちがいました。彼らはやがてバンドを組み、人前で演奏をするようになります。あくまでも逸話ですが、これがニッティ・グリッティ・ダート・バンド結成のいきさつでした。

結成当初はイルジティメイト・ジャグ・バンドと名乗っていたNGDG。メンバーはジェフ・ハンナ(ギター、マンドリン、ウォッシュ・ボード、ドラムス)、ジミー・ファッデン(ギター、ハーモニカ、ウォッシュ・タブ・ベース、ジャグ)、ラルフ・バー(ギター、クラリネット)、レス・トンプソン(ギター、ベース、マンドリン)、ブルース・カンケル(ギター、カズー)、そしてジャクソン・ブラウン(ギター)です。
ジャクソン・ブラウンがNGDBに在籍していたのは1966年初頭からのほんの数ヶ月間。彼らの付き合いは古く、NGDBがパラドックスを始めとするオレンジ・カウンティのクラブや学校などを回っていた65年頃からとされています。
前述のようにアメリカでもジャグ・バンドやラグタイム・ミュージックが見直されている最中にジャクソン・ブラウンとNGDBは巡り会いました。彼らはセッションを繰り返し、音楽的な方向に差異があったもののメンバーの陽気さに惹かれてジャクソン・ブラウンはバンドに加入します。この当時、ジャクソン・ブラウンは高校生でしたが、既にソロ・シンガーとしてクラブで歌うようになっていました。好奇心おう盛な年頃、バンドでのパフォーマンスも自らの音楽活動のための貴重な経験となり得ると判断しての参加だったのかもしれません。
NGDBは地元オレンジ・カウンティのクラブ「パラドックス」で催されたタレント・コンテストで優勝。次々と仕事が舞い込み、ラヴィン・スプーンフルとの共演を果たしてカリフォルニア以外の地域にもその名が知られるようになりました。しかし、ジャクソン・ブラウンの才能をNGDBのメンバーは認めながらも、彼の作る曲はバンドのトーンと違いすぎることが次第に浮き彫りとなっていたのです。後にジャクソン・ブラウンの代表曲となる "These Days" (1973年発表の『For Everyman』に収録)の原型はこの頃に作られており、NGDBもサード・アルバム『Rare Junk』(1968年発表)でこの曲をレコーディングしました。
高校卒業を控えたジャクソン・ブラウンはNGDBを脱退し、再びソロ・シンガーとしての道を歩むことになります。NGDBには彼に替わり、バンジョーの名手であるジョン・マッキューエンが加わりました。

NGDBは1966年秋にリバティ・レコードと契約し、翌67年にデビュー・アルバム『The Nitty Gritty Dirt Band』をリリース。ジャグ・バンドにこだわらず、ブルーグラス、カントリー、R&B、ロックン・ロール、ポップスと多彩な音楽性を披露しています。シングル・カットされた「Buy For Me The Rain」(グレッグ・コープランド&スティーヴ・ヌーナン作)は全米45位とまずまずのヒットを記録。アルバムにはジャクソン・ブラウン作の ”Melissa" と "Holding"も収録されていました。


ヒットの余勢を駆って、同じ年にセカンド・アルバム『Ricochet』を発表。ファースト同様、ジャグ・バンド、ロック、ブルース、カントリーとなんでもありで、混沌とした状況を呈していました。

アルバムのオープニング・ナンバーはジャクソン・ブラウン作の「Shadow Dream Song」。この曲の詳細は以前に書いた記事を参照していただければ幸いです。なお、このアルバムにはさらにジャクソン・ブラウン作の楽曲、「It's Raining Here in Long Beach」も収録されていました。


ジェフ・ハンナ作の「Ooh Po Pe Do Girl」。スキッフル風ではありますが、作風にラヴィン・スプーンフル(ジョン・セバスティアン)の影響が窺えます。


このアルバムのプロデューサーであるダラス・スミスが書いた「Put a Bar in My Car」。これもジョン・セバスティアンを連想させるような仕上がりです。


スティーヴ・ヌーナンとグレッグ・コープランドの共作「Tide of Love」。彼らはジャクソン・ブラウンの友人であり、当然のことながらNGDBとも少なからず親交がありました。スティーヴ・ヌーナン自身のヴァージョンは1968年に発表したアルバム『STEVE NOONAN』に前述の「Buy For Me The Rain」とともに収められています。


TIDE OF LOVE
愛の潮が満ちて来るのをごらん
俺がうたう歌を聴きにおいでよ
俺に君がいて、この愛は確かなものだと分かっている
でも愛ってはかないもの
山の頂上に昇る太陽の様子をごらん
空気が新鮮で新しくなるのを感じてくれ
草原や泉まで一緒に行こう
俺が行くところには君をきっと連れて行く

愛は永遠のものではないことぐらい知っている
だけどふたりが過ごした僅かな時間を抱いて
生きて行くことはできる
絶対に離れないでいてくれなんて君には言えない
でも君が去る前に愛し合うことはできる
だから今、花を愛すように俺を愛してくれないか
寒い冬の空気の中で死んでしまうまで
ひとつの幸せな時間の思い出だけを
俺に残してくれればいい
あまりに短く あまりに美しい愛の思い出を
愛が潮が満ちて来るのをごらん

ヒットした「Buy For Me The Rain」と同じ作者の楽曲であり、フォーク・ロック調のアレンジが施されたこの曲は二匹目のドジョウを狙う意図があったのでしょう。ジャグ・バンドのブームがいつまでも続くものではありません。NGDBは1968年に『Rare Junk』、69年に『Alive』と順調にアルバムをリリースしましたが、一方でジャグ・バンドのイメージを払拭しようと試行錯誤を繰り返しました。

1969年、NGDBは一旦活動を停止。ジェフ・ハンナは後にイーグルスに参加するバーニー・レドンとコーヴェッツというバンドを組むなど各々が充電期間を設けました。
数ヶ月後、メンバーは再び結集して新しいアルバムの制作に入ります。彼らはジャグ・バンド色を薄め、カントリーやブルー・グラスといったルーツ・ミュージックの要素とロックを融合した斬新でユニークなサウンドを生み出しました。それが1970年に発表された名盤『Uncle Charlie & His Dog Teddy』です。

Dave Mason - IT'S LIKE YOU NEVER LEFT

デイヴ・メイスンのCBS時代のアルバムが再発されました。今回は彼が1973年にCBS移籍第一弾としてリリースした『It's Like You Never Left(忘れえぬ人)』を取り上げます。

忘れえぬ人(紙ジャケット仕様)忘れえぬ人(紙ジャケット仕様)
(2010/04/14)
デイヴ・メイスン

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1. Baby... Please
2. Every Woman
3. If You've Got Love
4. Maybe
5. Head Keeper
6. Misty Morning Stranger
7. Silent Partner
8. Side Tracked
9. Lonely One
10. It's Like You Never Left

デイヴ・メイスンは1944年(1946年説もあり)5月10日にイギリスのウスターで誕生しました。十代半ばでギターを弾くようになったメイスンは1961年にジャガーズ、63年にはジム・キャパルディらとザ・ヘリオンズを結成してシングルを数枚をリリース。ヘリオンズ解散後はキャパルディがクリス・ウッドらと新たに結成したディープ・フィーリングに加入します。
1966年頃、メイスンらは当時スペンサー・デイヴィス・グループに在籍していたスティーヴ・ウィンウッドと知り合い意気投合。翌1967年、メイスン(ギター)、キャパルディ(ドラムス)、ウッド(サックス/フルート)らはスペンサー・デイヴィス・グループを脱退したウィンウッド(キー・ボード)とトラフィックを結成しました。ファースト・アルバム『Mr. Fantasy』、翌68年に『Traffic』を発表して順調に活動を続けて行くように思われましたが、メイスンは他のメンバーとの間の音楽的な方向性の違いを理由に脱退と再加入を繰り返します。

トラフィック時代のデイヴ・メイスンの代表曲、「Feelin' Alright」。セカンド・アルバム『Traffic』に収録されていました。


デイヴ・メイスンは1968年にはソロ・シングル「Little Woman」を発表。同年にリリースされたジミ・ヘンドリックスの『ELECTRIC LADYLAND』にトラフィックのメンバーがレコーディングに参加したのを皮切りに、メイスンはローリング・ストーンズの『BEGGER'S BANQUET』の録音にも関わるなど単独活動を強めて行きました。結局、トラフィックは69年に2枚のアルバムを残して活動休止。ウィンウッドはエリック・クラプトンらとともにブラインド・フェイスを結成します。

トラフィックを正式に脱退したデイヴ・メイスンは渡米。拠点をロサンゼルスに置いて、グラム・パーソンズやキャス・エリオットらとの交流を深めます。この地での音楽活動の手始めとして、メイスンは当時LAスワンプとして注目を集めていたデラニー&ボニーのバック・バンドのメンバーとしてツアーへ同行。トラフィック時代の代表曲「Feelin' Alright」からも察せられるようにメイスンの南部音楽思考は強く、デラニー&ボニーに刺激を受けてスワンプ・ロックに惹かれて行きました。アメリカ南部のサウンドに関心を抱くミュージシャンが多かったこの時期、デラニー&ボニーのツアーにはエリック・クラプトンやジョージ・ハリスンらも客演しています。
アメリカでの充実した音楽活動の中、メイスンはジョージ・ハリスンの『All Things Must Pass』(1970)に参加。その後、エリック・クラプトンらとデレク&ドミノスを結成。しかし、また悪い癖が出たのか早々に脱退し、メイスンはソロ活動へ向かいます。

1970年、デイヴ・メイスンはブルー・サム・レーベルから念願のソロ・アルバム『Alone Together』を発表。71年にはキャス・エリオット(元ママス&パパス)との共演盤、『Dave Mason & Cass Elliot』、72年に『Headkeeper』、73年に『Dave Mason is Alive』をリリースするなど一見順調そうな活動を行っているような印象を受けますが、メイスンとブルーサムの間にはトラブルが存在していたのです。アルバム『Headkeeper』や『Dave Mason Is Alive』はメイスンの意向を無視してブルーサム側が勝手に発売したものでした。こうしたトラブルやレコードの配給権を巡って契約上の問題も起き、やがて裁判沙汰にまで発展します。

その後ブルー・サムとの訴訟が解決したデイヴ・メイスンは心機一転とばかりにCBSと契約。こうして1973年に『IT'S YOU LIKE NEVER LEFT』のリリースへと漕ぎ着けたのです。

アルバムのオープニング・ナンバーは哀愁を帯びたコード・ストロークで始まる「Baby... Please」。官能的なギター・プレイが胸に迫ります。グラハム・ナッシュがコーラスで参加。


BABY... PLEASE
おまえと一緒に水辺にいると
時はすぐに過ぎ行く
すぐに俺を連れていけ
それがおまえのすべきこと

ベイビー お願いだ
おまえは俺に膝を擦らせるばかり
ベイビー お願いだ
冷たくしないでおくれ

連絡しようとすると
おまえの電話はいつも話し中
俺はおまえの思うままの奴隷
俺はおまえに尻尾を振る子犬

ベイビー お願いだ
おまえは俺に膝を掻かせるばかり
ベイビー お願いだ
冷たくしないでおくれ

どうしようもない子供のように
窓から飛び出し
むやみやたらとウイスキーを注ぐ
精神病院の大きなゴム室の中で
すべて順調と自分自身に言い聞かせる
頭の中は銀のスプーンを抱いたまま

俺は虎のようにフロアを行ったり来たり
昼へと移り行く夜を過ごしている
俺のほうにやって来る何かを捕まえようと
肩越しに見ている

ベイビー お願いだ
おまえは俺に膝を擦らせるばかり
ベイビー お願いだ
冷たくしないでおくれ

片思いの相手に必死で懇願する様子が描かれているようですが、少々難解な比喩表現が多くて意味不明な部分もありました。

続いて、甘く美しい「Every Woman」。


ライヴ映像です。


ブリティッシュ・フォークの雰囲気が漂うような「Maybe」。英国人の翳りが窺えます。



スティーヴィー・ワンダーのハーモニカがフィーチャーされた「The Lonely One」。「絶望のときがあった/気にかけられない時もあった/俺は孤独な人間だった/その時おまえは俺自身を教えてくれた/そして俺は気がついたんだ/孤独な人間にはならないと」と自らの半生を振り返るような歌詞が印象的です。


他にも大人の事情から"Son Of Harry"の変名で参加したジョージ・ハリスンのスライド・ギターが泣かせる「If You've Got Love」、「Headkeeper」の再録ヴァージョン、ホーン・セクションが鳴り響くファンキーなスワンプ・ロック「Misty Morning Stranger」、ほのかなラテン・フィーリングにトロピカル風の味付けがなされた「Silent Partner」、フュージョンの先駆けのようなサウンドを連想させるインスト・ナンバー「Side Tracked」、初期トラフィックの一翼を担っていたことが再認識させられるタイトル曲「It's Like You Never Left」など底知れぬ魅力に溢れた楽曲が収録されていました。
デイヴ・メイスンはトラフィック時代から曲作りに長けていて、それ故にスティーヴィ・ウィンウッドも彼の才能を認めてバンドに出たり入ったりの我がままを許していたのかもしれません。デイヴ・メイスンが態度の悪いたんなるギタリストだったならば、突然解雇を通知されても文句が言えなかったでしょう。
ともあれ、デイヴ・メイスンが自らの音楽的なルーツを再確認し、様々なジャンルを昇華してヴァラエティに富んだ
創作を披露した一枚であると言えるでしょう。

今回のボーナス・トラックはトラフィックが2004年に「ロックの殿堂(The Rock And Roll Hall Of Fame And Museum)」入りを果たした授賞式の映像です。同年に授賞したジャクソン・ブラウンの姿も確認出来ました。


Craig Doerge - CRAIG DOERGE

今回はジェームズ・テイラーと縁の深いアーティストを取り上げます。その人の名はクレイグ・ダーギー。ウエスト・コーストのロックを支えたキーボード・プレイヤーとして有名な彼が1973年に発表したソロ・アルバム、『CRAIG DOERGE』について少しばかり述べてみたいと思います。

クレイグ・ダーギー(紙ジャケット仕様)クレイグ・ダーギー(紙ジャケット仕様)
(2006/11/22)
クレイグ・ダーギー

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1. Yellow Beach Umbrella
2. Reno
3. Rosalie
4. Dogs Are the Only Real Christians
5. Easy on Me, Easy
6. Fair Weather Friends
7. Red Hot Music
8. Trouble With a Woman
9. Magic Sam
10. Raggedy Ann

1947年にオハイオ州クリーブランドに生まれたクレイグ・ダーギー。コネティカット州ハートフォードにあるトリニティ・カレッジで経営学を専攻していた頃に組んだバンドで音楽活動を始め、1960年代の中頃にはロサンゼルスでスタジオ・ミュージシャンの仕事を得ます。
1969年、フランク・ザッパのグルーピー集団だったGTO'Sのアルバムに参加し、ジェフ・ベックと共演。その後はバーバラ・キース(『Barbara Keith』1969)、ダニエル・ムーア(『Daniel Moore』1970)、ヘレン・レディ(『Helen Reddy』1971)、ミミ・ファリーニャ(『Mimi Farina & Tom Jans』1971)など様々なアーティストのアルバムのレコーディングに引っ張りだことなって行きました。
1971年、クレイグ・ダーギーはジュディ・ヘンスキ&ジェリー・イエスター夫妻のバックを務め、彼らのアルバム『Rosebud』にも参加。ジュディ・ヘンスキは1936年(1942年説もあり)12月20日に生まれたウィスコンシン州出身のシンガーで、野太くハスキーな声でフォーク、ジャズ、R&B、スタンダードなどジャンルにとらわれることなく歌いこなし、キャス・エリオットやジャニス・ジョプリンらに影響を与えたとされています。1961年に彼女は元キングストン・トリオのデイヴ・ガードや後にモダン・フォーク・カルテットを結成するサイラス・ファーラーと組み、ウィスキー・ヒル・シンガーズというグループでレコード・デヴュー。解散後はソロに転じ、ニュー・クリスティー・ミンストレルズを脱退したばかりのジェリー・イエスターと恋に落ちて結婚しました。ジュディ・ヘンスキはソロ活動を続け、ジェリー・イエスターはサイラス・ファーラーらとモダン・フォーク・カルテット(MFQ)を結成。商業的には芳しい結果を残せませんでしたが、二人にとって充実した時期を過ごせたようです。
MFQ解散後、ジェリーはアソシエイションのセカンド・アルバム『Renaossance』(1966)でプロデューサーとしての力量を開花させました。その後はラヴィン・スプーンフルを経てジュディと共に音楽活動を行うようになります。蛇足ながら、ジュディ・ヘンスキのマネージメントはMFQ、フランク・ザッパ、トム・ウェイツのマネージャーとして知られるハーブ・コーエンが務めていました。

ジュディ・ヘンスキのアルバム『Judy Henske』(1963)からトラディショナル曲「Love Henry」。歌詞もメロディも大幅に異なりますが、ボブ・ディランも『World Gone Wrong』(1993)で取り上げていました。


ジュディ&ジェリーは1969年に『Farewell Aldebaran』を発表、1971年にはグループ名をローズバッドと称して前述の『Rosebud』を制作しますが、リリース直前に二人は離婚。グループも解散してしまいました。夫婦関係が破綻した原因はジュディ・ヘンスキとクレイグ・ダーギーが恋仲になったことのようで、ほどなく二人は結婚します。ジュディとクレイグの年の差は10歳以上。前夫のジェリー・イエスターは1943年1月9日生まれでした。ジュディには年下の男性を虜にする魅力がさぞかし溢れていたのでしょうね。

ジュディ・ヘンスキ&ジェリー・イエスターとしてリリースした『Farewell Aldebaran』から「Three Ravens」。


結婚後のジュディは第一線から身を引き、主婦業に専念。その傍らクレイグと楽曲を共作するようになり、CS&Nに「Might As Well Have A Good Time」(1982年リリースの『Daylight Again』に収録)を提供。この『CRAIG DOERGE』も二人の共同作業によるものです。また、クレイグ・ダーギーはジュディ以外のアーティストとの共作も行っており、CS&Nの『CSN』(1977)では「Shadow Captain」をデヴィッド・クロスビーとともに作り、ドナ・ワイズとの「That Man Is My Weakness」はリター・クーリッジが『RITA COOLIDGE』でレコーディング。ポール・ウィリアムスが1972年に発表した『Life Goes On』ではキー・ボードの演奏のみならず、タイトル曲の作曲に手を貸すなどのサポートをしていました。

1972年、クレイグ・ダーギーはジャクソン・ブラウンのファースト・アルバム『Jackson Browne (Saturate Before Using)』のレコーディング・セッションでリーランド・スクラー(ベース)、ラス・カンケル(ドラムス)と知り合います。彼らは同じ年に行われたジェームズ・テイラーのアルバム『One Man Dog』のセッションでダニー・コーチマー(ギター)と出会い、意気投合してザ・セクションというバンドを結成します。ジャクソン・ブラウンやジェームズ・テイラーら多くのアーティストを支えることと同時にバンドとしても活動を続け、『THE SECTON』(1972)、『FORWARD MOTION』(1973)、『FOLK IT OVER』(1977)など現在までに3枚のアルバムを発表。セールス面では芳しい成績を残せませんでしたが、彼らの華麗で巧みなテクニックとファンキーな演奏はフュージョンの先駆けとして高く評価されています。

ザ・セクションのファースト・アルバムからゲスト参加のマイケル・ブレッカーのサックスをフィーチャーした「Doing The Meatball」。


それではアルバムの中から二曲紹介します。オープニング・ナンバーは「Yellow Beach Umbrella」。俗世間からの逃避願望が窺えます。本人曰く、「この歌は、ときにひとりぼっちになりたいと思うこともあるが、それでも一緒にいる相手を愛しているという内容」とのこと。クレイグ・ダーギとジュディ・ヘンスキの間に吹くすきま風が表されていると思うのは考え過ぎでしょうか。


YELLOW BEACH UMBRELLA
空を飛べるなら
マイアミへ飛んで行こう
豪華なリゾート・ホテルの
部屋を取るんだ
そこでは誰も
俺のことを知ってる人なんていやしない
俺のことなんて知りたいとも思わないのさ

俺は南の海の浜辺に花開く
黄色いビーチ・パラソルのひとつに紛れ込む
人々にとって俺は正体不明の男
おまえを一緒に連れて行ったりしない

車を運転できるなら
ペンサコーラへとドライヴしよう
天気が晴れだろうと雨だろうと
砂浜でひと眠り
俺に名前など誰も知りはしない
そこでは誰にも名前を知られることがない

馬に乗れるなら
タンピコまで走らせよう
電話をかけてきちゃ駄目だぜ、ハニー
電報を打ったって
金の無駄になるだけさ
俺の正体を突き止める人は誰もいない
そこでは誰にも正体を突き止められないのさ

この曲はアンディ・ウィリアムス(1976年発表の『Andy』に収録)、スリー・ドッグ・ナイト(1976年の『American Pastime』)、リビー・タイタス(1977年の『Libby Titus』)、ベット・ミドラー(1995年の『Broken Blossom』)ら多数のアーティストに取り上げられています。

ハーモニカの音色が心を癒すほのぼのとした雰囲気の「Rosalie」。ピアノの弾き語りによるバラード曲です。ギターはラリー・カールトンが担当していました。


流麗な調べを弾くかと思えば、エネルギッシュに鍵盤を弾ませ、バックを受け持ったアーティストを守り立てるために変幻自在のパフォーマンスを行うクレイグ・ダーギ。そんな彼がこのアルバムでは「シンガー・ソング・ライター」に徹したような趣で、歌心に溢れたヴォーカルを披露していました。華やかさもなく決して上手いとは言えないけれど、その朴訥とした味わいは一人の女性を想い続ける不器用な男のようであり、けなげさを感じます。
この他ザ・セクションの面々で演奏され、ジョー・ママのアビゲイル・ヘイネスがバック・ヴォーカルで参加した「Reno」、スティール・パンを使ってトロピカル風に仕上げた『Dogs Are the Only Real Christians』、ローラ・ニーロに捧げた「Fair Weather Friends」、レイ・ブラウン(ベース)とハリー・"スウィーツ"・エディソン(トランペット)を迎えてノスタルジックにスゥイングした「Raggedy Ann」など聴きごたえある楽曲が収録されていました。

ほんの僅かながらクレイグ・ダーギの姿が拝める映像で今回はお開きにしたいと思います。1978年に行われたジャクソン・ブラウンのツアーからの映像のようで、曲は「Rock Me On The Water」。前述したジャクソン・ブラウンのファースト・アルバムに収録されていた曲です。


今回のジェームズ・テイラー&キャロル・キングの来日公演ではザ・セクションのメンバー三人がバックを務めるために同行していますが、クレイグ・ダーギーの名前はありませんでした。2000年にアルバム『Loose In The Wind』でシーンにカム・バックした奥方のサポートに勤しんでいるのかどうか分かりませんが、誠に残念なことです。

James Taylor - October Road

来日間近ということで、今回は久々にジェームズ・テイラーに登場してもらうことにしました。取り上げるアルバムは2002年にリリースされた『October Road』です。季節外れのようで誠に申し訳ございません。

October RoadOctober Road
(2002/08/13)
James Taylor

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1. September Grass
2. October Road
3. On the Fourth of July
4. Whenever You're Ready
5. Belfast To Boston (God's Rifle)
6. Mean Old Man
7. My Traveling Star
8. Raised Up Family
9. Carry Me On My Way
10. Caroline I See You
11. Baby Buffalo
12. Have Yourself A Merry Little Christmas

いつものように心に響くギターの音色と穏やかな歌声。長年に渡り聴く者の心を癒すかのように歌い続けてきたジェームズ・テイラーですが、このアルバムでは円熟を超え、達観といったものを感じます。
繊細な性格ゆえに若い頃は精神治療施設へ入院した経歴があるジェームズ。人生の挫折を味わった経験も一度や二度ではありません。自分の体験を切り売りするようにして歌を紡ぎ、成功を獲得したことへの欺瞞や後悔の念に苛まされたこともあったでしょう。
しかし、ここにいるジェームズはうつろいやすい20代の若者ではなく、分別をわきまえた大人です。デビュー作から葛藤、悲哀、自己憐憫といった心情を吐露しながらも開放的な雰囲気を漂わせてきた人ですが、過剰なまでに意気込んだ様子も大袈裟な表現もなく、冷静に世の中や自分の周囲を見つめる姿がさりげなく醸し出されていました。

それではアルバムの中から何曲か紹介します。オープニング・ナンバーの「September Grass」は若い頃の恋の思い出を綴った歌。夏から秋へと移る感傷的な季節が物語の舞台です。誰もが経験するような他愛ない出来事にふと切なさを覚えました。


表題曲「October Road」。アルバムではライ・クーダーの控えめながらも胸に滲みるような味わい深いギターを堪能出来ますが、今回はディクシー・チックスと共演しているライヴ映像でお楽しみください。


アイリッシュ風の趣がある「Belfast To Boston (God's Rifle)」。


BELFAST TO BOSTON (GOD'S RIFLE)
田舎の土の中にライフルが何挺も埋められている
月が出る頃に埋められたライフル
錆び付いて土に還るまでには
どうか埋められたまま忘れ去られるように

誰がいにしえから続くこの憎しみをはらってくれるのか
この殺戮に終わりがあるのか
長く続く不当行為を消し去ってくれるのか
同胞のために悪魔を追い払ってくれ

いったい誰が言うのか
「もうこれまでだ、ああ、神よ
私が死ぬとしたら」

武器を送るのを止めよう
資金援助も止めよう
復讐の念で幾つもの海を越えるのは止めよう
ただ寛恕の祈りのみ
私の新たなる同胞と私のために

行方不明になった兄弟たち
犠牲となった人々
地中で黙して語れぬ子供たち
我々はもの言えぬ彼らの声を
聞くこと以外に何が出来ようか
「今こそ神のライフルを捨て去る時」と

世の不条理な現実を鑑みて描かれた歌のようですが、世界各地における紛争が示唆されています。「ベルファスト(アイルランドの首府)からボストンへ」というタイトルからも察せられるように北アイルランド問題への懸念、と同時にアルバムが発表された前年に勃発したアフガニスタン紛争にも思いが込められていると思われます。
人間にはプライドとアイデンティティーがあり、さらに国益や宗教が絡むと問題が複雑化して解決の糸口を見つけるのは困難であるかと思われます。国家間の争いならば和解の道を探ることも不可能ではありませんが、テロリストが相手となると話し合いは通じないでしょう。

スタンダード曲を思わせるような「Mean Old Man」。頑固で偏屈な老人が、ある人との出会いによってすっかり人柄が変化する様子が描かれていました。


娘であるサリー・テイラーがバック・ヴォーカルで参加した「 My Traveling Star」。家庭を顧みず、放浪に旅を繰り返す男の物語です。決して良い父親ではなかったと思われるジェームズ・テイラーの自戒の念が少なからず込められているようで興味深く受け取れました。


DVD『From The One Man Band』(2007)からの映像のようです。


本作の次に『The Best of James Taylor』を2003年に、そしてクリスマス・ソングを集めた企画盤『James Taylor at Christmas』を2006年に発表してジェームズ・テイラーはSONYを去りました。移籍先のHear Musicからは2007年にライブ・アルバム『One Man Band』、2008年にカヴァー集『Covers』、2009年に続編の『Covers 2』と毎年のように彼の歌声が届けられていますが、ここ数年スタジオ録音のオリジナル・アルバムのリリースがありません。ぜひ近いうちにJTの新しい歌と出会えることを待ち望む次第です。

Todd Rundgren - A Cappella

Purple_Hazeさんのブログ「Blues Power」sugarmountainさんのブログ「鳥肌音楽」でトッド・ラングレンに関する記事が相次いで掲載されていました。
拙ブログでも何度かプロデューサーとしてのトッド・ラングレンの仕事ぶりを扱ったことがありましたが、今回はアーティストとしての彼のパフォーマンスについて述べてみたいと思います。取り上げるアルバムは1985年に発表された『A Cappella』。異色作と言われる一枚です。

A CappellaA Cappella
(1990/10/25)
Todd Rundgren

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1. Blue Orpheus
2. Johnee Jingo
3. Pretending to Care
4. Hodja
5. Lost Horizon
6. Something to Fall Back On
7. Miracle in the Bazaar
8. Lockjaw
9. Honest Work
10. Mighty Love

トッド・ラングレンは1948年6月22日にペンシルベニア州アッパー・ダービー(フィラデルフィア州生まれとの説もあり)の出身です。1967年にNazzを結成し、翌68年にデビュー・アルバム『Nazz』をリリース。70年にバンドが解散した後、トッドはボブ・ディランのマネージャーであるアルバート・グロスマンに目をかけられ、彼のレーベルであるベアズヴィルからソロとしての再デビュー・アルバム『Runt』を発表します。同時にエンジニア/プロデューサーとしての修行もこのレーベルで積みました。
翌71年にドラムスとベース以外の楽器演奏を自分で行ったセカンド・アルバム『Runt. The Ballad Of Todd Rundgren』、73年には2枚組サード・アルバム『Something/Anything?』をリリース。この年にはプロデュースを手掛けたグランド・ファンクのアルバム『American Band』が全米2位を記録(同名のシングルは1位)し、以後もソロと並行してトッド自身がリーダー格を務めるユートピアを1974年に結成するなど順調な活動を続けて行きます。

セカンド・アルバム『Runt. The Ballad Of Todd Rundgren』より「Waiting Wall」。


サード・アルバム『Something/Anything?』より「I Saw The Light」


このようにトッド・ラングレンが紡ぎ出す楽曲はソウルフルでメロディアスな曲が多いのですが、時おり実験的な試みを行って前衛的な面を覗かせたり、そうかと思えば敬愛するアーティストへのオマージュやパロディに溢れた作品を発表するなど一筋縄でいかない多才ぶりを発揮していました。

1980年代の音楽界を振り返ると、パンク・ロックやディスコ・サウンドが栄華を極める中、一方ではカナダ出身のナイロンズ、少し後にアラバマ州で結成されたTake6などのアカペラをレパートリーの中心としたヴォーカル・グループが注目を集めていました。日本でも山下達郎さんの『On The Street Corner』(1980)、『On The Street Corner 2』(1986)が話題となった時期です。
そんな流れに便乗したわけではないのでしょうが、トッド・ラングレンも1985年にアカペラのアルバムを発表。既に1976年のソロ・アルバム『Faithful』において、ビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」をたった一人の多重録音により再現してみせて気を吐いていた奇人ならぬ奇才トッドのこと、「他人と同じようなことはやってられへんわい」とばかりに自分の声をサンプリングし、シンセサイザーを駆使しているものの他の楽器をヴォーカルだけで表現するといったひと味もふた味も違う作品を作り出しました。

それではアルバムの中から何曲か紹介します。エスニックな香りとビーチ・ボーイズを連想させるようなコーラスが融合された「Blue Orpheus」。


美しくも寂しい「Pretending to Care」


PRETENDING TO CARE
今日、俺はおまえの荷馬車になり
明日は戒めとなろう
かつて見たこともないほどの
美しい糸を首にぶら下げて飾り
耳もとで囁く者があれば
おまえはすべてを信じてしまう
でもその気持ちの奥底は
知る術もない
知る由もない

俺が盲人だったなら
おまえは俺の目の代わりとなってくれるだろうか
それとも気にかけるふりをしながら
見えるものすべてを隠してしまうのか
俺がいなければいいと望んでいても
思いきって口には出せずにいる

はっきりと打ち明けてくれないか
どうして自分でも分かっていると認めないのだ
傍にいて将来を託してきたのものは
ただの貝殻だったてことを
おまえはキリストの受難のように耐えることになるだろう
そのあとで擦り切れたガーゼのように破り捨て始めるのだ
俺は気がかりに思いたくないのだが
不安を抱かずにいられない
つい不安を抱いてしまうのだ

フィラデルフィア・ソウルを彷彿させる「Something to Fall Back On」。


社会への絶望感が歌われる無伴奏の「Honest Work」。トラディショナル・フォークの雰囲気が香ります。


ザ・スピナーズのカヴァー、「Mighty Love」。トッド・ラングレンのソウル・ミュージックへの傾倒ぶりが偲ばれます。


ザ・スピナーズのライヴ映像。彼らのオリジナル・ヴァージョンは1974年発表の『MIGHTY LOVE』に収録されていました。


当時としての最先端のテクノロジーによってたったひとりで完璧なハーモニーやコーラスを作り上げることに成功したトッド・ラングレン。コンピューター・ライズドされた手法はともすれば人間味がなくなる嫌いがありそうですが、彼の肉声とよく調和し、よりいっそうアコースティックな感触を際立たせる効果を醸し出していました。職人わざと言えるトッドの技量と歌詞における彼のメッセージがあいまって、アルバム全体が血の通ったヒューマニティー溢れる響きに仕立て上げられていたのです。

アルバム・ジャケットではバリ島のお面を被り、学生服を着ているという奇抜な出で立ち。ケチャを思わせるエスニックなリズムを取り入れた前衛的な「Miracle in the Bazaar」という曲も収録されていました。他にもドゥー・ワップ・スタイルの「Hodja」、反戦のメッセージが心に響く「Johnee Jingo」など捨て曲なしのアルバムですが、売れ行きは芳しくなくトッドの作品の中でも最低ランクに属するようです。

Carole King - ONE TO ONE

まもなくキャロル・キングがジェームズ・テイラーを伴って来日します。そこで今回は彼女が1982年に発表したアルバム『ONE TO ONE』を取り上げることにしました。

ワン・トゥ・ワンワン・トゥ・ワン
(2010/03/24)
キャロル・キング

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1. One to One
2. It's a War
3. Lookin' Out for Number One
4. Life Without Love
5. Golden Man
6. Read Between the Lines
7. (Love Is Like A) Boomerang
8. Goat Annie
9. Someone You Never Met Before
10. Little Prince

このアルバムは1977年から4年間在籍したキャピタル・レコードを離れ、アトランティック・レコード移籍第一弾としてリリースされたものです。キャピタル時代には吹っ切れたような明るさが窺える『Simple Things』(1977)、シンプルな音作りをしながらも時流に合わせたかのようなディスコ風の楽曲も収録された『Welcome Home』(1978)、ファンキーなR&Bテイストが印象的であるもののリラックスした雰囲気の『Touch The Sky』(1979)、そして原点に戻るかの如くセルフ・カヴァーで満たされた『Pearl』(1980)と4枚のアルバムを制作しましたが、中には注目されることなく芳しいセールス結果を残すことが出来なかった作品もありました。
ロサンゼルスという大都会の喧噪を離れ、コロラド、テキサスなどの穏やかな環境に身を置いて音楽に打ち込めたこの時期のキャロル・キング。バックを受け持ったナヴァロやジェリー・ジェフ・ウォーカーと彼のバンドとの出会いがあった反面、78年に三番目の夫だったリック・エヴァーズが他界。彼女は創作のみならずプライヴェートにおいても変化の激しい数年間を過ごしたのです。

こうした悲喜こもごもの出来事を経験したことにより、創作面ではやがて収穫となって実を結びことになりました。前作『Pearl』では最初の夫であるジェリー・ゴフィンと紡ぎ出した数々のヒット曲を自らの声で歌い、さらに二人の手による新曲「Dancin' With Tears In My Eyes」も収録。そのことがきっかけとなったのか、この『ONE TO ONE』でも二人が書き下ろした「Someone Met Never Before」が収められ、さらにはジェリーと娘であるルイーズの親子による共作曲「Life Without Love」をキャロル・キングが歌うといった趣向も盛り込まれていたのです。

共同プロデュースには『Touch The Sky』と同じくナヴァロのマーク・ホールマンを起用。二番目の夫だったチャールズ・ラーキーもベースで全面参加してキャロル・キングのこの新たなる門出に花を添えています。

それではアルバムの中から何曲か紹介します。オープニング・ナンバーは表題曲で、シンシア・ウェイルとの共作「One To One」です。シンシア・ウェイルは夫であるバリー・マンと組んで数々のヒット曲を送り出して来た女性。キャロル・キングと同じくブリル・ビルディング・サウンドを代表するソング・ライターです。
「ひとりひとり/あなたから私へ/愛を送っていけば/どこまでも広がって行く」というシンプルなメッセージが心に届きました。


続いて「あなたはただナンバーワンが欲しいだけ」と歌われるファンキーな「Lookin' Out For Number One」。強欲に取り憑かれ、周囲や他人の気持ちを顧みない人への強烈な皮肉に受け取れました。


かつてのキャロル・キングを彷彿とさせるような「Read Between The Lines」。


もう一曲、ジェリー・ゴフィンとの共作曲「Someone You Never Met Before」。途中で娘のルイーズ・ゴフィンの歌声が聴けます。ギターはダニー・クーチが担当していました。


SOMEONE YOU NEVER MET BEFORE
キャニオンの向こうに陽が沈み
一人取り残されたように思える時
見知らぬ誰かがあなたのドアを
ノックするかもしれない
前に会ったことがなくても
知っている人のように思える誰かが

さて これはよくあるときめきってことなのかも
悲しみにつながるのか喜びに導かれるのか分からないけれど
でもそれはあなたが知らなかった
チャンスの訪れ
前に会ったことがなくても
知っている人のように思える誰かかも

恐れてはいけない
ゲームはまだ始まっていないのだから
愛を見つけるまで
彼女はあなたを待っている
そしてあなたがしなければならないことのすべては
彼女を中に迎え入れること
そしてもう寂しい生活とお別れするのよ

だから陽が街の向こうに沈んだら
哀れな気分に陥ってはいけない
あなたのドアをノックするのは
新しい恋人かもしれない
前に会ったことがなくても
知っている人のように思える誰かが
知っている人のように思える誰かなのかも

1970年代後半から1980年代にかけての音楽界を振り返ってみると、ディスコ・サウンドが興隆を極め、パンク・ロックとエレクトロニクス・ポップスが市場を席巻していました。私小説を語るように歌うシンガー・ソング・ライターやアコースティックを基調とした爽やかなハーモニーが冴えるウエスト・コーストのロックは時代のグルーヴ感に合わずに隅へと押しやられていたのです。ヴェテラン・アーティストの中にはその潮流をうまく取り込み昇華して行った人もあれば、時代に対応出来ずに押し流され消えてしまった人もいました。
ヒット・メイカーであるキャロル・キングとて例外ではありません。前述のようにディスコ・サウンドを取り入れて音に変化をつけたり、従来のような弾き語りを中心にするのではなくバンド・サウンドを前面に押し出すなどの工夫を試みていたのです。

この『One To One』はアルバムのリリースに合わせたTVプログラム映像も制作され、ジェリー・ゴフィンとのコンビ復活が話題を集めたもののヒット・チャート119位までしか上昇せずに終わりました。しかし、この『One To One』にはシンプルでぬくもりを感じる演奏をバックに、『Tapestry』を始めとするOde時代の作品で表現されたような普通の女性像が投影されているかのように感じ取れます。また、ライヴ・パフォーマンスの映像からも窺えるように不遇の時期であっても決して心が折れることのないひたむきさが伝わってきました。商業的には不発でしたが、シンガー・ソング・ライターとしての才覚のみならず、幾度となく辛い別離を味わった女として、娘と共演する姿から母として、そして人生経験を積んだひとりの人間としてのキャロル・キングの魅力が表された見過ごすことの出来ないアルバムだと思います。
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