好きな音楽のことについて語りたいと思います。

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Fairport Convention - What We Did on Our Holidays

ザ・バーズを扱った前回の記事で、サンディ・デニーがリード・ヴォーカルを取るフェアポート・コンベンション「The Ballad Of Easy Rider」のカヴァー・ヴァージョンを紹介しました。そこで、今回は1969年に発表されたフェアポート・コンベンションの『What We Did On Our Holidays』を取り上げることにします。

What We Did on Our HolidaysWhat We Did on Our Holidays
(2003/04/22)
Fairport Convention

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1. Fotheringay
2. Mr Lacey
3. Book Song
4. The Lord is in this Place, How Dreadful Is This Place?
5. No Man's Land
6. I'll Keep It With Mine
7. Eastern Rain
8. Nottamun Town
9. Tale In Hard Time
10. She Moves Through The Fair
11. Meet on the Ledge
12. End of a Holiday
13. Throwaway Street Puzzle
14. You're Gonna Need My Help
15. Some Sweet Day


ホワット・ウィ・ディド・オン・アワ・ホリデイズ+3ホワット・ウィ・ディド・オン・アワ・ホリデイズ+3
(2010/11/24)
フェアポート・コンヴェンション

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フェアポート・コンベンションは1967年にアシュレイ・ハッチングス、サイモン・ニコル、リチャード・トンプソンらを中心として結成されました。今でこそ伝統的なイギリスの民謡とロック・ミュージックが融合したサウンドで知られるグループですが、当初はアメリカ志向が強く、ザ・バーズ、ボブ・ディラン、ジェファーソン・エアプレインらのような音作りを模索していたのです。
やがて彼らはウエスト・コースト風のハーモニーやコーラスを再現するためにジュディ&フォークメンというユニットで歌っていたジュディ・ダイブル、ピラミッドというグループの男性ヴォーカリストだったイアン・マシューズをスカウト。念願ともいえるジェファーソン・エアプレインのような編成が実現し、フェアポート・コンベンションはクラブを中心とした精力的なライヴ活動を始めました。
そうした地道な努力がアメリカ人プロデューサーのジョー・ボイドの目に留まります。ボイドはマネージャーを買って出て、彼の尽力によりフェアポート・コンベンションは1968年にポリドールからのデビュー・アルバムの発表へと漕ぎ着けました。

Fairport ConventionFairport Convention
(2003/04/15)
Fairport Convention

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後にキング・クリムゾンの中心メンバーとなるイアン・マクドナルドの恋人だったジュディ・ダイブル。彼女はイアンがクリムゾンの母体となるジャイルズ、ジャイルズ&フリップに参加したのを機にフェアポートを脱退し、彼の後を追います。技量不足のために引導を渡されたとの説もありますが、どちらも正しいのかもしれません。「辞めたかったら好きにせいや。代わりはなんぼでもおるんやしな」といったところでしょうか。
女性ヴォーカリストに去られたフェアポートですが、人を介してサンディ・デニーを紹介されます。ソロとしてザ・ストローブスのメンバーとしてのキャリアがあり、ジョー・ボイドも一目置く存在だったサンディですが、フェアポートのメンバーは彼女のことを知りませんでした。そこでサンディは「You Never Wanted Me」(Jackson C. Frank)を披露。フェアポートの面々はサンディの実力を思い知らされます。



こうしてサンディ・デニーは一発採用。彼女を加えたフェアポート・コンベンションは心機一転アイランド・レコードに移籍。1969年にセカンド・アルバムをリリースしました。深く重みのあるサンディの歌声とイアン・マシューズの甘く優しいヴォーカルが絶妙の味わいを醸し出し、リチャード・トンプソンのリード・ギターも二人の個性をうまく引き出すために貢献しています。リチャード・トンプソンはグループのコンポーザーでもあり、ソング・ライターでもあるサンディの存在は大きな刺激となってお互いが共振する効果の源にもなり得たことでしょう。

サンディ・デニー(ヴォーカル、ピアノ、アコースティック・ギター)
イアン・マシューズ(ヴォーカル)
リチャード・トンプソン(ギター、アコーディオン)
サイモン・ニコル(ギター、オートハープ、ヴァイオリン)
アシュレイ・ハッチングス(ベース・ギター)
マーティン・ランブル(ドラムス、パーカッション)

それではアルバムの中から何曲か紹介します。オープニング・ナンバーの「Fotheringay」。トラディショナル曲の雰囲気が漂いますが、サンディ・デニーのオリジナル作品です。スコットランド女王メアリー・ステュアートの波乱に富んだ生涯をもとに創作された歌で、胸が締め付けられるような物悲しさが表されていました。サンディーはフェアポート・コンベンション脱退後に結成したグループにもフォザリンゲイと名付けるなど、メアリー・ステュアートに並々ならぬシンパシーを寄せていたことが分かります。


FOTHERINGAY
彼女は幾度か城の窓から外の景色をじっと眺め
そして幾度も幽閉された壁の中で過ぎ行く日の光を見つめていた
彼女の呼びかけに応える者など誰もいない
黄昏時は夕陽がだんだんと小さくなって萎み
寂しい一瞬に、残り火も消え去り
最後に若鳥たちが飛んで行く
彼女の貴重な自由の日々はずっと以前に奪われた
厳重な扉の奥でむなしい年月を送るために
だけど、こんな日々はもう続かない
明日のこの時刻、彼女は遠く離れたところにいるだろう
これらの島々よりも遥か遠く、人里離れたフォザリンゲイ城に

メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542-1587)
エリザベス1世を従妹に持つスコットランド王ジェイムズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身王妃メアリー・オブ・ギーズの長女。父ジェイムズ5世の急死に伴い、兄二人が早世していたため生後6日で即位。1547年、スコットランドはイングランドの攻撃を受け、翌48年にメアリー・ステュアートは母の母国であるフランスに避難。メアリーはこの地で育ち、1558年にアンリ2世の皇太子フランソワと結婚。アンリ2世の死後、フランソワが即位し、彼女はフランス王妃となる。同年、エリザベス1世がイングランド女王に即位するとメアリーとフランソワは王位継承権がメアリーにあると主張。エリザベスを激怒させた。
1560年、フランソワが夭折したため、翌61年にメアリーはスコットランドに帰国。しかし、当時のスコットランドでは宗教改革が進み、貴族を含めた国民の多くがプロテスタントに改宗していたので旧教徒(カトリック)であるメアリーの帰国は必ずしも歓迎されなかった。
1565年、メアリーは従弟のダーンリー卿と再婚。旧教の復活を目論むが、夫は政治にも宗教にも無関心であった。二人の間にはジェイムズが生まれたものの夫の傲慢と放蕩から仲が冷えきり、メアリーは名門貴族出身のボズウェル伯ジェイムズ・ヘバーンに心を寄せるようになる。1667年、ダーンリー卿が殺害された直後にメアリーはボズウェルと再婚。当然ながら二人がボズウェル殺害に関与していると疑われ、国民の不信を買う。間もなく反ボズウェル派の貴族たちが中心となり暴動が勃発。メアリーは投降しロッホリーヴン城に幽閉され、ボズウェルは逃亡した。メアリーは退位させられ、息子ジェイムズが即位。
1568年、メアリーは城を抜け出し挙兵するも鎮圧され、エリザベス女王を頼ってイングランドに亡命。エリザベスは王位まで狙っていた旧教徒メアリーの処遇に困惑。議会からは死刑が要求されたが、旧教国スペインの存在と関係悪化を恐れて幽閉するのが得策と考えた。また、血縁のよしみもあり、命を奪うには忍びなかったとも推測される。
以後メアリーは19年に渡り、各地を転々とする軟禁生活を送った。その間もメアリーは自らの王位継承権の正当性
を訴え、旧教徒の多いイングランド北部から支援を受けようと画策する。1586年、イギリス廷臣で旧教徒のアンソニー・バビントンらがエリザベス女王殺害を企てバビントン事件を起こし、裁判過程でメアリーが関与した証拠の手紙が提示された。メアリーはバビントンらとともに有罪となり、死刑宣告を受ける。エリザベス女王はメアリーの死刑執行を一旦躊躇したが、1587年にメアリーはフォザリンゲイ城にて最期の時を迎えた。
この事態を受けて、イングランドと断続的に紛争関係にあったスペイン王フェリペ2世はイングランドに無敵艦隊を派遣。新旧両教の争いを背景にした悲劇は1588年のアルマダの海戦の契機となったのである。なお、フェリペ2世の妻のメアリー1世はエリザベスの異母姉にあたり、イングランド女王に就いていた治世では旧教(カトリック)を復活させて新教徒(プロテスタント)を弾圧し、エリザベスも不遇の時代を送った。自分の地を脅かされていたにもかかわらず、メアリー・ステュアートの死刑執行を躊躇したのは自分の人生と彼女の人生を重ね合わせて同情や哀れみの念を抱いていたからかもしれない。また、メアリー・ステュアートらが主張していたように、エリザベスには王位継承権がないとする議論もある。英西戦争の背景にはそうした複雑で様々な因縁が絡んでいることは言うまでもない。

リチャード・トンプソンのギターが冴えるブルージーな「Mr Lacey」。のボーナス・トラックとして収められたエヴァリー・ブラザーズのナンバー、「Some Sweet Day」と続けてお聴きください。エヴァリー・ブラザーズのヴァージョンは『It's Everly Time!』(1960年発表)に収録。


サンディ・デニーとイアン・マシューズのデュエットが美しく溶け合う「Book Song」。グラハム・ナッシュあたりのナンバーを彷彿させるような仕上がりです。


アコーディオンの音色が印象的なリチャード・トンプソン作の「No Man's Land」。ケイジャン風のサウンドを取り入れた軽快な曲です。
http://www.youtube.com/watch?v=SaQ1bDSIexM

ボブ・ディラン作の「I'll Keep It With Mine」。少々ハスキーなサンディ・デニーの歌声が心に滲みます。ディランのヴァージョンは『Biograph』(1985)、『The Bootleg Series Vol. 1-3』(1991) 、『The Witmark Demo』(2010)などに収録されていました。


ディランは1964年頃にこの曲を書き上げましたが、当時は正式に発表することを見送りました。その後、ニコがファースト・アルバム『Chelsea Girl』(1967年発表)をレコーディングするにあたって、ディランはこの曲を彼女に提供したとのことです。
http://www.youtube.com/watch?v=TcnYkf5nm14

ジョニ・ミッチェル作の「Eastern Rain」。ジョー・ボイドにはジョニ・ミッチェルと音楽出版社との契約を取りはからった経験があり、この曲はおそらくボイドから紹介されたものでしょう。なお、ジョニ・ミッチェルはこの曲を正式にレコーディングしていません。


ボブ・ディランの「Masters Of War」とよく似たメロディを持つトラディショナル曲、「Nottamun Town」。
http://www.youtube.com/watch?v=om4KMCKBJuY

リチャード・トンプソン作の「Tale In Hard Time」。時代を反映してか少々サイケデリックな雰囲気が窺えます。
http://www.youtube.com/watch?v=qLvDinvnMwk

サンディ・デニーがフェアポート・コンベンション加入以前からレパートリーにしているトラッド曲、「She Moves Through The Fair」。
http://www.youtube.com/watch?v=8cN2JYnBTZw

シングル・カットされたリチャード・トンプソン作の「Meet on the Ledge」。ソロ転向後も彼の代表的なレパートリーとなっています。


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Lindisfarne - FOG ON THE TYNE

一向にアクセス数が伸びない状況です。一日三桁到達は未だ叶わぬ遠い夢。独断と偏見に満ち、オリジナリティのない稚拙な内容に問題があるのでしょう。このままあまねく受け入れてもらえないとなると張り合いがなく、そろそろ潮時を考える必要があるのかもしれません。

さて、自虐的でネガティヴな思考をしていてもつまらないので、誠に勝手ながら開き直って好きな音楽を語ることに致します。今回ご登場願うアーティストは1970年代前半のイギリスで、トラッドをベースに特有のフォーク・ロック・サウンドを奏でて好評を博したリンディスファーンの皆様。取り上げるお題は彼らが1971年に発表したセカンド・アルバム『FOG ON THE TYNE』です。

Fog on the TyneFog on the Tyne
(2004/06/15)
Lindisfarne

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1. Meet Me On The Corner
2. Alright On The Night
3. Uncle Sam
4. Together Forever
5. January Song
6. Peter Brophy Don't Care
7. City Song
8. Passing Ghosts
9. Train In G Major
10. Fog On The Tyne
11. Scotch Mist
12. No Time To Lose

イングランド北東部の小都市ニューカッスルで幼なじみが中心となって結成されたリンディスファーン。アラン・ハル(ギター、ヴォーカル、ピアノ)、ロッド・クレメンツ(ベース)、レイ・ジャクソン(ヴォーカル、ハーモニカ、マンドリン)、レイ・レイドロウ(ドラムス、パーカッション)、サイモン・カウ(リード・ギター、マンドリン、ピアノ)らのメンバーによる5人組です。
最初はロッド・クレメンツ、レイ・ジャクソン、レイ・レイドロウ、サイモン・カウ、ジェフ・サドラーらでDOWNTOWN FACTIONなる名前を名乗ってブルース・ロックを演奏していましたが、シンガー・ソング・ライターでもあったアラン・ハルの経営するクラブに出演しているうちに彼と意気投合。サドラーが抜けた後任としてアラン・ハルが加わり、音楽性も彼の影響を受けていきます。
1970年に運良くカリズマ・レコードの目に留まり契約が成立。リンディスファーンと名を改め、その年にアルバム『NICKY OUT OF TUNE』でデビュー。セールス的には振るわなかったものの見事なコーラスと繊細ながらも親しみやすいメロディで徐々に人気を集め、新人グループとしての存在を示すには十分な結果を得ました。
翌71年にはボブ・ディランやサイモン&ガーファンクルらを手掛けたボブ・ジョンストンをプロデューサーに迎え、アメリカ風のフォーク・ロックの要素を加味。そうしてリリースされたのがこの『FOG ON THE TYNE』です。

それではアルバムの中から何曲か紹介します。オープニング・ナンバーは「Meet Me On The Corner」。


MEET ME ON THE CORNER
なぁ夢売り屋さんよ、どこに行っていたんだ
俺が見ることの出来る夢はあるのかい
あんたにこの歌を届けたくて俺は来たんだ
俺に夢の一つでも分けてくれないか

あんたは俺に会ったことがないし
すぐに忘れるだろうから
俺があんたの袖を引っ張っても気にしないでくれ
待ち合わせ場所を確認したいんだ
俺が信じているのはあんたの夢だけだから

街灯がつく頃に街角で待ち合わせをしよう
必ず行くと約束する
誰もいない道を歩き夜明けへと消えよう
あんたに分けてもらえる夢があるのなら

敷物の束や思い出の品々を置いて
地面に衣類を広げてみなよ
あんたが韻を踏んでくれるのなら
俺には時間がある
ただぶらぶらしているだけなんだ

街灯がつく頃に街角で待ち合わせをしよう
必ず行くと約束する
誰もいない道を歩き夜明けへと消えよう
あんたに分けてもらえる夢があるのなら

敷物の束や思い出の品々を置いて
地面に衣類を広げてみなよ
あんたが韻を踏んでくれるのなら
俺には時間がある
ただぶらぶらしているだけなんだ

「明日が昨日になってしまうのと同じくらい確実に自分のものだと思っていた愛は消えて行く」との虚無感が漂う「January Song」。


都会生活を背景に「都会の街、君の嘘は見抜ける/君のゲームには付き合わないよ」と恋人との別れが歌われた「City Song」。


2003年のツアー時のライヴ映像と思われる「Passing Ghosts」。


ブルース・ナンバーの「Train In G Major」は1972年にフランスのTVショーに出演した際のライヴ映像をご覧ください。


少々ユーモラスな曲調の表題曲「Fog On The Tyne」。


1973年のフランスでのライヴ映像のようです。


トラディショナル・フォークとロックン・ロールが融合したような「No Time To Lose」は1971年のライヴ映像でお楽しみください。


英国的な翳りを残しつつも、明るくリラックスしたような音の響き。アメリカン・ポップスやウエスト・コースト・サウンド、あるいはThe Bandのような土の香りのする音とも通じるものが窺えます。そうした音楽性はメンバーの嗜好も反映されているようで、ザ・ビートルズ、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、レナード・コーエンなどの名前が彼らの好みのアーティストとして挙げられていました。
アルバムは全英1位を獲得し、シングル・カットされた「Meet Me On The Corner」も全英5位まで上昇。成功を決定づける作品となりました。
1972年にサード・アルバム『DINGLY DELL』を発表。順調な活動を続けて行くように思えたものの、アラン・ハルと幼なじみを中心としたメンバーとの間の関係が次第に悪化していきます。結局、ロッド・クレメンツ、レイ・レイドロウ、サイモン・カウの3人が脱退してジャック・ザ・ラッドを結成。残されたアラン・ハルとレイ・ジャクソンは新たなメンバーを補充してリンディスファーンを続けていきました。

1975年頃にTVショーに出演したジャック・ザ・ラッドの映像です。


その後は両者とも鳴かず飛ばずの状況に陥り思うような成果を上げること出来ず、1977年に脱退組がリンディスファーンに復帰。翌78年にアルバム『Back and Fourth』を発表するに至ります。1990年頃までこのオリジナルのライン・ナップで活動した後、年齢を重ね、個人的な事情もあってか一人また一人と抜けざるを得ない状況になっても解散せず、メンバーを補充しながらバンドを維持。残念ながらアラン・ハルは1995年に他界しましたが、ロッド・クレメンツを中心に据え、地元ニューカッスルを基盤として2004年頃まで活動を続けました。

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